ジャパンカップレジェンド第6回は、ジャパンカップの大会オブザーバーにもなっていただいている今中大介さんに登場していただきます。今中さんにとって想い出深いというチームポルティで走った1996年ジャパンカップは、UCIワールドカップ戦に組み入れられた特別なレースでした。

「ジャパンカップは欧州の自転車界が日本人を受け入れてくれるようになった、橋渡しのような存在」

今中大介(いまなか だいすけ)
日本/1996年ジャパンカップ 日本人最高位(12位)、1997年ジャパンカップ 4位

インターマックス取締役で、ジャパンカップの大会オブザーバーでもある今中大介さんインターマックス取締役で、ジャパンカップの大会オブザーバーでもある今中大介さん photo:Makoto.AYANO
一番思い出に残っているのは1996年のワールドカップになった年のジャパンカップです。シリーズ戦に組み入れられたためヨーロッパから多くの選手がやってきて、欧州プロの最終レースという位置づけでした。出場選手も220人以上いて、普段のジャパンカップとは違っていました。

古賀志林道の上りを行く今中大介(日本、チームポルティ)。ジャネッティのアシストをこなしながらも日本人として最上位の成績を残す古賀志林道の上りを行く今中大介(日本、チームポルティ)。ジャネッティのアシストをこなしながらも日本人として最上位の成績を残す Photo:Yuzuru SUNADAシーズン最終レースなので、ジロ・ディ・ロンバルディアが終わってから調子を保っている選手、疲労を残した選手がいましたが、ホンキの連中がいっぱいいたからレースは本当にハードでした。

今でこそ早めの逃げが決まるのが定番的になっていますが、当時のジャパンカップはまだ序盤はゆっくりな展開で始まることが多かったんです。でも序盤から皆がソワソワして動きたがっているのもワールドカップならでは。

僕とモトローラの選手が一緒に早めの逃げを打ちました。そこにクラウディオ・キアプッチも合流して一緒に逃げ始めたんです。すぐに20〜30人に膨らみ、ホンキの逃げになってしまい、そのまま最後まで逃げ続けることに。後半は体力的にギリギリでした。

そこにポルティのエースのマウロ・ジャネッティが追いついてきました。チームメイトではダヴィデ・レベリンもいたのですが、レベリンも余裕がなくて、ジャネッティに「イマナカ、アタックするから手伝ってくれ」と言われて、さらに引き倒したんです。

ジャネッティはアタックを成功させ、見事優勝してくれました。自分は脚を使い果たしてそのまま終わると思っていたら、意外にも追走がいなかったことで、ゴールは12位でした。最後はステファノ・ザニーニ(ゲーヴィス)と一緒でした。仮にもワールドカップなので、彼もポイントを稼いでおきたかったはずなのに、スプリントはヒジで合図して前に出してくれたんです。なんだか認めてくれたような気がしましたね。 

ジャパンカップの思い出は数限りなくあります。自分の引退レースとなった翌年は阿部(良之)が勝ちました。あのとき阿部は本当に強かったし、タフィのアシストは見事だった。8月のシマノ鈴鹿で大落車して、仕上げるのに精一杯でしたが、最後だからこそばっちり仕上げて臨みましたが、やられちゃいましたね。手足がしびれるほど追い込んだ。マペイがワン・ツーで、ポルティがスリー・フォー(笑)。それはそれで良かったんですが、やっぱり優勝したい。表彰台に登りたかったですね。

2014年レジェンドクリテリウムでポルティ時代のジャージを着て入場する今中大介さん2014年レジェンドクリテリウムでポルティ時代のジャージを着て入場する今中大介さん Photo:Yuzuru SUNADA現役当時、1996年のジャパンカップを振り返る今中大介さん現役当時、1996年のジャパンカップを振り返る今中大介さん photo:Makoto.AYANO

今となってはプロとして普通にその世界でやっていたのが不思議な感じはあります。キアプッチが3連覇した年のジャパンカップ(1995年)に、初めてプロとして一緒に走りました。ジャパンカップは世界の英雄たちと一緒に走れるレースで、それはすごいことです。

キアプッチは日本好きで、ジャパンカップを走った後は、欧州レースでもよく声をかけてくれるようになりました。ジャパンカップが始まって以来、欧州との距離はぐっと縮みましたね。欧州の自転車界が日本人を受け入れてくれるようになった、橋渡しのような存在です。世界との距離を近づけてくれた、そんな役割はとても大きいと思います。