シリーズでお送りするレジェンドが語るジャパンカップストーリー。その記念すべき始まりは、1992年の第1回ジャパンカップ優勝者で、現在ユナイテッドヘルスケアの監督を務めるヘンドリック・ルダン氏。当時のレースを本人の視点から振り返っていただきました。
ヘンドリック・ルダン(Hendrik REDANT)
1992年の第1回ジャパンカップ。幸運にも私はその初代チャンピオンになりました。ベルギー人の私にとっては少しプレッシャーがありました。2年前の1990年、宇都宮で開催された世界選手権ロードレースでベルギー勢がワン・ツーフィニッシュ(ルディ・ダーネンスが優勝、ディルク・デウォルフが2位)を飾っていたからです。
自信はありました。私はその年のパリ〜ツールで優勝していて、かなり調子が良かったためです。当時のパリ〜ツールは今より距離が長く、レースが296kmでパレード走行も24kmあったから、かなり長距離のレースでした。そのレースを平均48km/hの大会記録で優勝しました。これは私のキャリア最大の勝利となっています。
その頃の私の体格は、身長187cm、体重80kgでした。今はこんなに太ってしまったけど、当時はガリガリに痩せていました。私はワンデークラシックの得意なライダーで、今も存続しているベルギーのロットチーム(現ロット・ソウダル)の選手でした。
コースは世界選手権と同様、今とは逆回りでしたね。ジャパンカップのコースは上りが厳しく、当時は今みたいに上りで使える軽いギアはありません。リアが7段か8段変速で、フリーは軽くても21T、まれに23Tまで。フロントのギアはインナーが42Tという時代でした。
1992年のジャパンカップには上りに強いクラウディオ・キャプッチ(イタリア)やローラン・ブロシャール(フランス)といった強力な選手たちが出場していました。私は彼らのようなトップクライマーではなかったので、勝つためにラスト30kmのかなり早い段階でアタックをかけました。バート・ボーエン(アメリカ、スバル・モンゴメリー)だけが私の後ろについてきて、二人で一緒に逃げました。
優勝を狙っているキャプッチらが後ろの集団にいたので、逃げ切りは容易ではありませんでした。ボーエンは私を振り切ろうと上りで何度もアタックを試みました。私は離されずにゴールまで行き、最後はスプリント勝負に持ち込みました。その頃の私はスプリンターでしたから、ゴールまで行けば勝てる自信がありました。
今ではジャパンカップは観客数もかなり増え、非常に盛り上がっていると聞いています。私は現在、UCIプロコンチネンタルのユナイテッドヘルスケアプロサイクリングチームの監督をしています。ですから機会があればぜひ、チームを連れてジャパンカップに戻ってきたいと思っています。いつか招待されるのを楽しみにしていますよ。
「またいつの日か監督としてジャパンカップに戻ってきたい」
ヘンドリック・ルダン(Hendrik REDANT)
ベルギー/1992年 第1回ジャパンカップ優勝者
1992年の第1回ジャパンカップ。幸運にも私はその初代チャンピオンになりました。ベルギー人の私にとっては少しプレッシャーがありました。2年前の1990年、宇都宮で開催された世界選手権ロードレースでベルギー勢がワン・ツーフィニッシュ(ルディ・ダーネンスが優勝、ディルク・デウォルフが2位)を飾っていたからです。
自信はありました。私はその年のパリ〜ツールで優勝していて、かなり調子が良かったためです。当時のパリ〜ツールは今より距離が長く、レースが296kmでパレード走行も24kmあったから、かなり長距離のレースでした。そのレースを平均48km/hの大会記録で優勝しました。これは私のキャリア最大の勝利となっています。
その頃の私の体格は、身長187cm、体重80kgでした。今はこんなに太ってしまったけど、当時はガリガリに痩せていました。私はワンデークラシックの得意なライダーで、今も存続しているベルギーのロットチーム(現ロット・ソウダル)の選手でした。
コースは世界選手権と同様、今とは逆回りでしたね。ジャパンカップのコースは上りが厳しく、当時は今みたいに上りで使える軽いギアはありません。リアが7段か8段変速で、フリーは軽くても21T、まれに23Tまで。フロントのギアはインナーが42Tという時代でした。
1992年のジャパンカップには上りに強いクラウディオ・キャプッチ(イタリア)やローラン・ブロシャール(フランス)といった強力な選手たちが出場していました。私は彼らのようなトップクライマーではなかったので、勝つためにラスト30kmのかなり早い段階でアタックをかけました。バート・ボーエン(アメリカ、スバル・モンゴメリー)だけが私の後ろについてきて、二人で一緒に逃げました。
優勝を狙っているキャプッチらが後ろの集団にいたので、逃げ切りは容易ではありませんでした。ボーエンは私を振り切ろうと上りで何度もアタックを試みました。私は離されずにゴールまで行き、最後はスプリント勝負に持ち込みました。その頃の私はスプリンターでしたから、ゴールまで行けば勝てる自信がありました。
今ではジャパンカップは観客数もかなり増え、非常に盛り上がっていると聞いています。私は現在、UCIプロコンチネンタルのユナイテッドヘルスケアプロサイクリングチームの監督をしています。ですから機会があればぜひ、チームを連れてジャパンカップに戻ってきたいと思っています。いつか招待されるのを楽しみにしていますよ。