ジャパンカップレジェンド第4回は、1997年に日本人で初めて優勝を飾った阿部良之さんに登場願いました。当時世界最強チームとして誉れ高いマペイ(現在のエティックス・クイックステップ)に所属し、アンドレア・タフィとともにフィニッシュに飛び込みました。日本人のJC本戦優勝は現在までその勝利だけです。
「アシストがエースを任され、世界最強のチームメイトに支えられて優勝を遂げることができた」
阿部良之(あべよしゆき)
日本/1997年 第6回ジャパンカップ優勝者1997年に日本人で初めてジャパンカップ優勝を飾った阿部良之さん photo:Makoto.AYANO
その当時、私は欧州プロとして「世界最強」と言われたチームに所属して走っていました。アンドレア・タフィはじめ最高のメンバーとともに参戦したジャパンカップでした。本来は自分がアシストしなければいけないようなメンバーのなかで、自分がエースを任され、本来エースであるスター選手たちが僕のことをアシストしてくれるという状況でした。
欧州プロチームでは所属選手の地元での勝利というのをとても大切にするんです。勝てないまでも地元の選手が活躍するようにチーム全体で動くといったことは、今も当然のように行われていることです。
ジャパンカップはプライオリティが高いレースでしたが、日本でのレースですので「アベに花を持たせてやろう」「エースになったつもりで走ってみろ」とチームから言われ、ブラマーティ、ランフランキらエース級の選手たち皆が僕のことをアシストしてくれるという心強さでした。
大船に乗ったようなレースでした。まずランフランキが逃げに乗って主導権を握り、他の逃げを潰し、僕が逃げに乗れるような動きを作ってくれた。あとは自分でチャレンジしてみるだけといった、絵に描いたようなうまい展開でした。
あの年のジャパンカップは今中大介さんの引退レースということも大前提としてあったんです。今中さんとはシマノ時代から一緒に走ってきました。自分がエースとなるのと同時にそれも強く意識していました。自分が常に追いかけてきた今中さんの動きを見届けたいという運命的なレースでもありました。
エースを託された以上、ふさわしい走りをしないといけない。頭を使い、脚を使いすぎないように、周囲の動きを見極め、重要な局面で力を100%発揮するように走っていました。
最終周回。タフィ、今中さん、ジャネッティと私の4人のつばぜり合いから、最後の上りで私が仕掛けた。あの3人から見れば私のアタックは力の無いものだったと思います。泳がされた感じもありましたが、そこにタフィが合流してきて、そこからはとんでもなく強力な牽きで突き進んでくれた。あの機関車のような走りは今も鮮明に覚えています。
後のパリ〜ルーベ覇者、アンドレア・タフィ(イタリア、マペイ)と手を取り合いゴールする阿部良之(日本、マペイ) (c)下野新聞社
ウィニングランのその時、私は手首を痛めていて、ハンドルから両手を離すことが出来ませんでした。本当はタフィと二人で両手を挙げてフィニッシュしたかったんですが、それができず、迫るライン。どちらが勝ったのか分からないような感じでしたが、タフィが両手を挙げながらも僕を押し出してくれたんです。
ゴール後は呆然としていました。写真を撮られ、観客や報道陣ら大勢に囲まれるうちに実感が湧いてきた。そしてタフィは「よくやった」と声をかけてくれた。自分が勝ったというより、周りの選手たちの能力をしっかり把握して展開をつくれるタフィの能力の高さを心底実感しました。
ジャパンカップは欧州チーム所属の選手として走らせてもらった最後のレース。出場が決まったときから身体づくりや準備に、念入りで有意義な期間を過ごさせてもらえました。
昨年、別府選手がクリテで優勝しました。新城選手も本戦で3位と、そろそろ本戦のほうも次なる日本人の優勝を期待できる感じで盛り上がってきました。ぜひ記念すべき25周年にそれが実現して欲しいと願っています。