ジャパンカップレジェンド第5回は、地元宇都宮を本拠地とする日本初の地域密着型プロロードレースチーム、宇都宮ブリッツェンGMの廣瀬佳正さんに登場願いました。ファン、選手、そして地元チームのGMとして1993年大会からずっとジャパンカップを見続けている廣瀬さんは、史上最多4度の山岳賞を獲得しています。
廣瀬佳正(ひろせよしまさ)
私とジャパンカップとの出合いは1993年。当時、高校1年生だった私はツール・ド・フランスの山岳ステージを颯爽と走るクラウディオ・キアプッチの姿に釘付けになっていました。そのキアプッチがジャパンカップに出場すると聞いて、その走りを絶対に生で観たい!と思って森林公園へ足を運んだのです。
結果はご存知の通り、キアプッチの優勝。上りで軽やかに抜け出し、独走勝利を飾ったキアプッチの姿を今でも鮮明に思い出せますが、高校生だった私が受けた衝撃はそれ以上。“自分もヨーロッパでプロ選手になる!”と心に決め、それまで以上に練習に打ち込むようになりました。
私自身は、1997年にアマチュアのオープンレースでジャパンカップを初めて走り、1998年から2007年までプロレースに連続出場していました。ですが、スキルシマノに所属していた2008年に宇都宮ブリッツェンを立ち上げる決意をし、チームの拠点である大阪と宇都宮を往復する日々が始まりました。当然、トレーニングをする時間も取れず、トップコンディションからは程遠い状態です。
それでも地元でのレースということで、当時の監督だった今西さんは「出るか?」と声をかけてくださったんです。でも、自分の考えとしては、地元だからという理由ではなく、強いからという理由で選手を選んでもらいたいという気持ちがあったので、今西さんにはそう伝えました。
やっぱり、ジャパンカップって日本人選手にとっては特別なもので、誰もがあの大観衆の前で最高の走りを見せたいと思っているレースなんです。そのレースに万全の状態で出られずに情けない走りをすることは他の選手にはもちろん、ジャパンカップというレースに対しても失礼だという気持ちもあったのかもしれません。
ジャパンカップで4度山岳賞を獲得しましたが、一番思い出に残っているのはやはり2009年。宇都宮ブリッツェンの初年度の山岳賞です。あの当時は運営会社のスタッフ、そして選手という2足の草鞋で、トレーニング量も選手に専念できていた時の半分、大げさに言えば3分の1ぐらいという状態。それでも、初年度だからこそチームとして何かを残したいという気持ちがありました。
当初は、長沼(隆行、現群馬グリフィン)がエースで終盤勝負、清水(良行、現那須ブラーゼン監督)が逃げに乗って山岳賞を狙う作戦でした。ですが、この年は1周目の古賀志で逃げが決まらず、集団が一度緩んだ田野町の交差点でもう一度動きがありました。序盤から積極的に動いていた清水も脚が削れていた状態だったので“まずい!”と思って私が反応したのですが、それが決まってしまって。その瞬間に“マズい!”と思いましたね(笑)。
それでも、こうなったら最初の山岳賞、3周目で取るしかないと思っていたのですが、その麓で落車した選手に乗り上げてしまって、練習をしていない私が取れるであろう貴重な機会がなくなってしまったんです。
そこからは頭を切り替えて、何とか6周目の山岳賞で勝負できるように脚を保たせる走りを続けました。それこそ、ベテランという立場を最大限に生かす走りもしたと思います。それで何とか1回勝負をかけられる脚を保ったまま6周目を迎え、他の選手の意表を突く形で古賀志の麓からアタックをして山岳賞を取ることができました。
多くの選手がゴールを目指してレースを進める中、あの時の私にとっては6周目の山岳賞がゴールでした、その後、8周目に逃げ集団から遅れてしまい、共に逃げていた選手たちには本当に申し訳ないことをしたと思いますが、初年度の宇都宮ブリッツェンにとっては、ひとつ目に見える結果を残すことができたのが、今となっては良かったと思えますね。
今は現役を引退して宇都宮ブリッツェンのGMという立場でジャパンカップに関わらせてもらっていますが、ジャパンカップは今以上の規模のレースになると確信しています。栃木県には200万人の県民がいますが、そのすべてにジャパンカップが響いている訳ではありません。そして、そんな栃木県の皆さんにジャパンカップの価値、そしてロードレースの価値を伝えるのが、私たち宇都宮ブリッツェンの使命だと思っています。
「栃木県の皆さんにジャパンカップ、ロードレースの価値を伝えることが宇都宮ブリッツェンの使命」
廣瀬佳正(ひろせよしまさ)
日本/2005、06、07、09年ジャパンカップ 山岳賞
私とジャパンカップとの出合いは1993年。当時、高校1年生だった私はツール・ド・フランスの山岳ステージを颯爽と走るクラウディオ・キアプッチの姿に釘付けになっていました。そのキアプッチがジャパンカップに出場すると聞いて、その走りを絶対に生で観たい!と思って森林公園へ足を運んだのです。
結果はご存知の通り、キアプッチの優勝。上りで軽やかに抜け出し、独走勝利を飾ったキアプッチの姿を今でも鮮明に思い出せますが、高校生だった私が受けた衝撃はそれ以上。“自分もヨーロッパでプロ選手になる!”と心に決め、それまで以上に練習に打ち込むようになりました。
私自身は、1997年にアマチュアのオープンレースでジャパンカップを初めて走り、1998年から2007年までプロレースに連続出場していました。ですが、スキルシマノに所属していた2008年に宇都宮ブリッツェンを立ち上げる決意をし、チームの拠点である大阪と宇都宮を往復する日々が始まりました。当然、トレーニングをする時間も取れず、トップコンディションからは程遠い状態です。
それでも地元でのレースということで、当時の監督だった今西さんは「出るか?」と声をかけてくださったんです。でも、自分の考えとしては、地元だからという理由ではなく、強いからという理由で選手を選んでもらいたいという気持ちがあったので、今西さんにはそう伝えました。
やっぱり、ジャパンカップって日本人選手にとっては特別なもので、誰もがあの大観衆の前で最高の走りを見せたいと思っているレースなんです。そのレースに万全の状態で出られずに情けない走りをすることは他の選手にはもちろん、ジャパンカップというレースに対しても失礼だという気持ちもあったのかもしれません。
ジャパンカップで4度山岳賞を獲得しましたが、一番思い出に残っているのはやはり2009年。宇都宮ブリッツェンの初年度の山岳賞です。あの当時は運営会社のスタッフ、そして選手という2足の草鞋で、トレーニング量も選手に専念できていた時の半分、大げさに言えば3分の1ぐらいという状態。それでも、初年度だからこそチームとして何かを残したいという気持ちがありました。
当初は、長沼(隆行、現群馬グリフィン)がエースで終盤勝負、清水(良行、現那須ブラーゼン監督)が逃げに乗って山岳賞を狙う作戦でした。ですが、この年は1周目の古賀志で逃げが決まらず、集団が一度緩んだ田野町の交差点でもう一度動きがありました。序盤から積極的に動いていた清水も脚が削れていた状態だったので“まずい!”と思って私が反応したのですが、それが決まってしまって。その瞬間に“マズい!”と思いましたね(笑)。
それでも、こうなったら最初の山岳賞、3周目で取るしかないと思っていたのですが、その麓で落車した選手に乗り上げてしまって、練習をしていない私が取れるであろう貴重な機会がなくなってしまったんです。
そこからは頭を切り替えて、何とか6周目の山岳賞で勝負できるように脚を保たせる走りを続けました。それこそ、ベテランという立場を最大限に生かす走りもしたと思います。それで何とか1回勝負をかけられる脚を保ったまま6周目を迎え、他の選手の意表を突く形で古賀志の麓からアタックをして山岳賞を取ることができました。
多くの選手がゴールを目指してレースを進める中、あの時の私にとっては6周目の山岳賞がゴールでした、その後、8周目に逃げ集団から遅れてしまい、共に逃げていた選手たちには本当に申し訳ないことをしたと思いますが、初年度の宇都宮ブリッツェンにとっては、ひとつ目に見える結果を残すことができたのが、今となっては良かったと思えますね。
今は現役を引退して宇都宮ブリッツェンのGMという立場でジャパンカップに関わらせてもらっていますが、ジャパンカップは今以上の規模のレースになると確信しています。栃木県には200万人の県民がいますが、そのすべてにジャパンカップが響いている訳ではありません。そして、そんな栃木県の皆さんにジャパンカップの価値、そしてロードレースの価値を伝えるのが、私たち宇都宮ブリッツェンの使命だと思っています。